【メモ】差別する賭けという思考実験
パスカルの賭けっていうのがある。簡単に言うとこんな感じ。
・神を信じないとする。実際に神がいた場合、めっちゃ怒られる。実際に神がいない場合、たかだか現世の幸福が手に入る。
・神を信じるとする。実際に神がいた場合、来世とかでめっちゃいい思いができる。実際に神がいない場合、とりあえず現世で多少損するけどまぁ死んだら無に還る。たかだが現世の損。
でもって、神がいた時に与えられる幸福or罰がめちゃめちゃでかいので、とりあえず神の存在を信じる=神がいる方に賭ける方が期待利得が大きいんじゃないのーっていうお話。
ところで最近ツイッターで「差別」の話が私のところにわりとちょくちょく回ってくる。女性差別、性的少数者差別、外国人差別云々。
まぁ差別ってのはする人がいるから存在するんだけど、この人達の行動原理ってパスカルの賭けに似てんじゃないのかなーという思考実験。
つまり
・差別する人になるとする。差別する人とは差別のし合いなのでお互い様。差別しない人は「差別する」ことを理由に低い利得を与えてくることはない(そうすると差別する人になってしまう!)ので、自分が一方的にいいように差別できる分利得はプラス。
・差別しない人になるとする。差別する人には差別されるので利得はマイナス。差別しない人とはお互いなにもしないのでプラスマイナスゼロ。
でもって、差別する人はプラマイゼロorプラス、差別しない人はマイナスorプラマイゼロだから、差別する人の方が得だという。
まぁ各方面からいろいろ刺されそうな議論だけど、あくまで思考実験ってことで、別に自分が差別する人だと言っているわけではないですよと。
論証としてはたぶん「差別しない人は「差別する」ことを理由に低い利得を与えてくることはない(そうすると差別する人になってしまう!)」がアヤシイんだろうけれど、「差別する奴なんてけしからん!」は差別ではないのかっていうのは延々とぐるぐる回り続ける議論だと思うんで無視。ラッセルのナントカですわ。
ここから言えることは、要するに本気で『差別』を無くしたかったら「『差別』する人」がめっちゃ不利益を被る構造をつくればいいってこと。そうすれば期待利得がひっくり返る。…まぁつくればいいんだけど、それをやろうとすると自分がもとの「『差別』する人」とどう違うのかっていう問題が浮上してくるんだろうなぁ。だから強く出れないし、『差別』もなくならないってことなんだろうな。
解決法としては「『差別』するorしない」という対立軸を取っ払ってしまえばいいのかもしれない。今『差別』「だから」いけないと批判しているものを、別の根拠から批判するようにするっていうのが、ひとつの解決策なのかなと。